奈良に嫁に来たDAYS

奈良暮らしコロナに負けずに楽しもう!

台所という場所からはじまるのさ

私は料理が好きだった。料理に目覚めたのは小学校四年の時。雑誌に載っていたミルク餅もどきを初めて作ったのだ。牛乳と砂糖と片栗粉を混ぜて火にかけとろみをつける。私には美味しかったが家族には大不評だった。でも私はめげなかった。それから母のいない間に色んなチャレンジ作を作って食べた。片付けがちゃんとできないからと母から料理禁止令が出されても、鬼の目を盗んでは料理した。元来不器用だったので、最初の方は野菜炒めの野菜を切るだけで1時間かかった。でも、好きこそものの上手なれで、しまいには自分で店を切り盛りするまでに成長した。

 

最初の結婚相手の母親がやっていた食堂をただで使わせてもらって、沖縄そばとネパールカレーの店をはじめたのは2人目の子供が保育所に入ってから。平日の11:00~14:00が営業時間で日替わりケーキとハワイのオーガニックコーヒーとチャイも売りだった。友達のきぃちゃんに手伝ってもらったり、旅人に手伝ってもらったりしたけど、彼らがいなくなってからは1人で全てやった。楽しいけど疲れた。疲れがたまって遂には病気になった、躁鬱病。現在は双極性感情障害といわれている。

 

それで店を畳んで、離婚もして楽しかったり悲しかったりした島を出た。32才だった。病を持つ身で2人の子供を育てるのは無理と判断して、身一つでの出発だった。半年間、リゾート地のホテルで調理の仕事をしたり、1ヶ月スナックで働いたら、屋久島の小さいホテルで働いたり。そうこうしているうちに癌だった母が亡くなった。それを機に姉と一緒に暮らすことにした。母の死のショックで躁鬱病は悪化。通院をはじめた。貯金もなかったので、生活費は父と姉に出してもらった。

 

ある時私は姉の勧めもあって田舎にある実家に帰ることにした。田舎の方が刺激が少ないので病気にいいだろうということからだった。コンビニには徒歩で40分、市街地にはバスで約1時間の半端なところ。障害者手帳二級の私はバス代が無料だったので、市街地に週に一度は通った。本屋に行ったり、楽譜屋に行ったり、友達に会ったり。当時、メンヘラ向けの交流サイトがあって、仕事もせずに暇を持て余している私はそのサイトをたびたび利用していた。

 

そのサイトではなれた街に住む男性と意気投合した。サイトから離れスカイプでほぼ毎日会話した。私はハイになって少しの荷物だけを持ちその人の住む街に移住した。でも、その人とは激しい喧嘩を繰り返し、遂には国交断絶した。知らない街で1人になった私は、また例のサイトで仲良くなれそうな人を探しては会った。私はギターを弾いていたので、ギター友達もできた。私もそのサイトに「旅友、カラオケ友募集」と記事をのせた。何人かの人から連絡があり、数人と会った。その中の1人が今の主人だ。

 

主人とは中距離恋愛を一年してから結婚した。再婚はしないし、できないだろうと思っていたくせに私は自分からプロポーズした。人間はわからない。主人の住む街に移住して5年目。違う文化の土地なのでいろいろ戸惑ったけれど、最近やっと慣れて来た。面接に受かれば、一月からはA型作業所にも通う。じわじわと広がっていく世界。精神的にも今はすごく安定していた、毎日料理している。精神的に不安定な時は料理できなかった。料理に愛着があり過ぎて失敗するのが怖かった。

 

今はあまり何も考えずに料理している。献立を数日分考えてからまとめて買い物に行く。気負った料理はほとんど作らない。料理でみんなにすごいと思われたかった私はもういない。角のないこころで、今日も台所からはじまるのさ。「私がこの世でいちばん好きな場所は台所だと思う。」